アラフォーのヘッポコピーライターが自らの失敗談で綴る、自戒と猛省の広告コラム


上の表現、下の表現

アラフォーのヘッポコピーライターが自らの失敗談で綴る、自戒と猛省の広告コラム。


第15回 <上の表現、下の表現>

広告を作っていることが恥ずかしい。そんな時期が僕には長くありました。

映画や音楽や小説のように後世に残ることもない、創作物として不純な使い捨ての産業廃棄物。大企業からお金をもらって、不要なモノを派手なイメージと巧みな言葉で売りつける。ミュージシャンや作家になれなかった才能も辛抱も足りない人間が、安定した収入をもらいながら芸術の真似事をしている…etc。

世の中の広告に対するイメージは大体こんなところではないでしょうか。実は僕もずーっと同じことを思っていました。広告は純粋な創作物に比べ「表現として下である」。そんな引け目をずっと感じていたのです。


広告制作の仕事は過酷です。ドラマみたいに「恋も仕事も一生懸命!」なんてことはまずありません。徹夜明けのベタついた髪をなでつけながら、ユニクロで白いワイシャツを買ってプレゼンに行き、あっけなく玉砕した揚句、放ったらかしにしていた恋人にフラれたりしているのが現実です。

そこまでして我々は一体何を作っているのでしょうか。そもそも「広告」って何なんだ!僕は以前このコラムで「広告はビジネスです」と書きました。それは間違いありません。でも今ここで言いたいのは、もっと本質的な「存在意義」の話です。

こんなこと書いたらエラい人たちに怒られるかもしれない。でも誤解を恐れずに言えば、広告とは、

「ヒマつぶし」

だと思います。

あなたのヒマをタダでつぶします。その代わり、
私たちの会社や商品のことを少しだけ知ってくださいね。

ということ。なんだ、少しは役に立ってるじゃん。ヒマつぶしにさえならない広告なんて無価値だ。わざわざ目を留めてくれた人のヒマさえロクに潰せないくせに、言いたいことだけ聞いて欲しい(できれば買って欲しい)なんてムシが良すぎる話じゃないか。


そう気づいてから仕事が俄然楽しくなりましたし、広告のつくり方も当然変わりました。

どうせなら、いいヒマつぶそう。

そう開き直れるようになったのです。それまでは商品のことをうまく言わなきゃ、面白いレトリックを考えなきゃ、人生や生活について深イイひと言をヒネり出さなきゃと、我ながら肩に力が入っていたと思います。でも今はこの広告は「誰かのヒマをちゃんとつぶせているか?」という目でチェックするようになりました。なぜなら、

広告のライバルは、広告ではない

からです。競合他社の広告なんて些細な話。広告の真のライバルは、家で接するTV番組や新聞記事であり、車内で目にする雑誌広告の見出しやスマホで見るSNSなのです。(でなかったら、写真週刊誌や女性ナントカがこんなに売れるはずないですよね)

広告を見るために新聞を買ったり電車に乗ったりする人はいません。ボーっとしているときに偶然目に留まる。それが正しい広告の見られ方です。リラックスモードのときには、それなりの物言いが必要です。企画書みたいなお堅い絵と言葉で、セールスポイントをどれだけ訴えても時間のムダ。消費者にはそんな面倒くさい話につきあう気持ちの余裕も、意欲もありません。それより女優の熱愛相手が誰かとか、煽情的なグラビアの見出しの方が気になるし、友だちの投稿に「いいね!」を押している方が楽しいに決まっています。


お金を払って楽しむ映画や音楽とは違い、広告は「誰も見たい人なんていない」というハンデを背負ってスタートする「圧倒的に不利な表現」です。それは裏を返せば「表現としてハードルが高い」とは言えないでしょうか。「買って欲しい」という下心があろうと、楽しませてくれる人に人は弱い。数多くの障害を乗り越えてヒットした広告は、表現としてもの凄く面白いはずです。高尚な仕事だとはお世辞にも言えないかもしれないけど、その難しさに僕はやり甲斐を感じます。

2時間観てもワケがわからない映画だってたくさんあるのに、CMにはたった15秒しかない。一瞬で心をつかみ、理解させ、欲しいとまで思わせなければならない。こんな難しいお題、なかなかないと思いませんか?

※ 本コラムの内容は全て個人的な発言であり、所属する組織や団体とは一切関係ありません。むしろ早く関係して発言できる身分になりたいものです。


佐藤理人(さとうみちひと)
電通 第4CRP局 コピーライター。
マーケティング、営業を経て、2006年より現職。
東京コピーライターズクラブ会員。
受賞歴:TCC新人賞、ACC銅賞など。