アラフォーのヘッポコピーライターが自らの失敗談で綴る、自戒と猛省の広告コラム。
暴走するクルマはなぜいつもよりによって子どもたちの列に突っ込むのだろう。なぜヤ○ザの事務所に突っ込んで生まれて来たことを後悔するくらいボコボコにされたり、一人で崖から勝手にダイブしたり、逃亡中の強盗や麻薬の売人を偶然ハネたりしないのだろう。「誰でもよかった」などとぬかす無差別殺人犯もしかり。本当に誰でもいいなら、筋骨隆々の総合格闘家や特攻服を着たヤンキーや白スーツに白エナメル靴のいかにもな紳士を相手に己の根性を試してみたらどうなのだ。アホ共の犠牲になった方々と被害者のご遺族が本当に不憫でならない。
警察やマスコミはなぜそんな事件が起きたのかは追及しても、なぜ彼らが犠牲にならねばならなかったのかまでは論じてくれない。運が悪かった。答えのない多くの質問に私たちはそう答える。そう考えることでどうにか納得しようとする。でも本当にそうだろうか。飛行機の墜落事故や列車の脱線、韓国のセウォル号のような沈没事故、NYの同時多発テロや東日本大震災のような大災害や大事故なら、まだ人智を超えた巡り合わせとしてあきらめるしかないかもしれない。しかし酒を飲んで運転するバカや、幼児を見ると声をかけずにはいられない変態による犯罪はだいぶレベルが違うのではないか。少なくとももしボクが同じ立場になったら「運が悪い」のひと言では到底納得できないと思う。
頭のちょっとアレな奴らにこれ以上黙って殺されているワケにはいかない。法律の改正やモラルの向上を待てるほど気は長くないし、ハイブリッド教がこれだけ幅を利かすようになると、クルマがすぐそばまで来てるのに気づかないことも珍しくない。自分の存在を高らかに知らせてくれる分、まだ暴走族の方が親切かもしれない。結局、自分の身は自分で守るしかないのだ。つまり自己責任。しかしそこには弱冠「自業自得」のニュアンスが混じる。安全はみんなのものでなければ。自己責任という言葉は少し無責任だと思う。
去年一年間における子ども(幼児、小学生、中学生)の交通人身事故は約2,300件。9年前に比べると約半分に減ったものの、それでもまだ多すぎる。しかもその半分以上が子ども側に違反のない、いわゆる「もらい事故」です。親や先生やおまわりさんは言う。「交通ルールを守りましょう」と。しかしどんなにルールを守っていても事故は起きる。いや、起こされる。超過勤務のあまりトラック運転手の意識が夢の世界にトリップしてたり、軽自動車に乗ったおばさんの足がブレーキとアクセルを踏み間違えたら、こちらに落ち度がなくてもそれでもう一巻の終わり。交通ルールに頼るだけでは限界がある。世の親たちは歩きスマホなんかして子どもから目を離してる場合ではないのだ。
そこでふと思った。どうして小学校には「安全」という科目がないんだろう。645年の「大化の改新」で中大兄皇子が蘇我氏を滅ぼした話も大事だけれど、去年どこの交差点でどんな痛ましい事故が起きたかを知ることはそれ以上に大事なはず。連休になるとどこかで必ず一件は悲しい水難事故が起きる。高波や水嵩の増えた河川がどれだけ恐ろしいかは、日本中の子どもたちが全員知っているべき必修科目ではないのか。過去に学びより良い未来を作るのが歴史を勉強する意義なら、学ぶべき過去は無数にある。少なくとも年に一回か二回、おまわりさんが安全指導をするだけでは不十分だ。
実は最近、某安全装置メーカーの担当になりました。そこは世界中に自動車の安全装置を供給している会社なのですが、そこの広告を作るにあたり資料を読み、工場を見学し、エンジニアなど様々な人の話を聞いてわかったこと。事故を防ぐいちばん簡単で効果的な方法は、事故を「想像」することです。あの曲がり角から突然バイクが飛び出して来るかもしれない。その先の横断歩道で前のタクシーが急停車するかもしれない。悪運の多くは実は「リスク」だったりする。運を上げる方法はわからないけど、運を下げる方法は確実に存在するのだ。大切なのは相手に期待しないこと。止まってくれるだろう、避けてくれるだろうがいちばん危ない。「クルマを見たら突っ込んでくると思え」くらいで歩行者の認識はちょうどいいと思う。
計算力や語学力と同様、安全力も一度身につければ一生その人を助けてくれる。円周率を3にしてる暇があるなら、子どもたちのアタマが柔らかい内に危険を想像し避ける方法を教えてあげて欲しい。事故から国民一人ひとりを守る、そんな「集団的自衛権」があってもいい。犯罪だけでなく事故も少なくなってこそ、初めて「世界一安全な国」と呼べるのではないでしょうか。あとはハイブリッドカーの暴走族が現れないことを願うばかりです。
※ 本コラムの内容は全て個人的な発言であり、所属する組織や団体とは一切関係ありません。むしろ早く関係して発言できる身分になりたいものです。