今年の3月、劇物のメタノールを酒に混ぜて妻が夫を殺害するという事件が起きた。使われたのはメタノール。燃料用として一般的に手に入るものだ。妻自身は殺意を否定していたそうだが、メタノールは立派な劇物だ。混入した本人の意思がどうであれ、適量あればヒトは死んでしまう。
メタノールとよく構造が似たものにエタノールがある。エタノールは言うまでもなく僕らが大好きなお酒の成分だ。メタノールは化学構造で言うと「CH3OH」となるが、エタノールは少し炭素の数が増えた「CH3CH2OH」となる。はっきり言ってほとんど同じだ。しかし、この微妙な構造の違いが、体内では毒か無毒かの違いとなってしまう。
戦後日本の混乱期ではこのメタノールが入った毒入りエタノールが密造酒として流通し、多くの犠牲者が出た。純粋なエタノールは酒税の対象となり当時は高価であったが、メタノールが少し入っていると税対象から外れるため安く手に入る。このメタノール入りの酒を手に入れ、蒸留などでメタノールを取り除き酒として販売しようというのが密造酒を売る人たちの狙いだったようだ。しかし、実際はメタノールとエタノールを蒸留操作で分離させるのは極めて難しく(共沸という現象が起こりうまく分離できない)、結果的に毒物のメタノールが残った危険な酒が出回ることになってしまった。今でも途上国を中心に同じような事件が後を絶たない。
エタノールは体の中で様々な酵素が働いて、最終的には無毒な酢酸(お酢の成分である)に変わるが、一つ炭素が少ないメタノールは蟻酸(ぎさん)という成分に変わる。これはその名の通りアリの尾にある毒成分であり、アリはこの蟻酸を毒針に詰めたり液として敵にかけたりして巣を守っている。この蟻酸はヒトに対しても毒であり、具体的には視神経障害や、中枢神経障害を引き起こし、最悪死に至る。蟻酸に簡単に変化してしまうメタノールも、同じくヒトには毒として働いてしまうわけだ。
純粋なメタノールは10mlの摂取量で失明をおこす可能性がある。このコラムで良く出る半数致死量LD50で言うと 1400mg/kg、メタノールの比重は0.8g/mlなので体重60kgの人であれば約100mlの摂取で死に至る。100mlはコップ1杯に満たない量であり、お酒だと誤解してしまうと十分にヒトが飲めてしまう量である。
ちなみに、ほとんどのLD50のデータはマウスやラットを元にしているのだが、メタノールはヒトでのLD50実測データがあるレアな化合物である。それだけ多くの事件や事故が起こっており、研究も多くされている物質なのだ。
純粋なメタノールは「劇物」にランクされている化合物で、例えば僕がいる研究所では施錠保管や個数のカウントなど厳しい管理が必要とされ、一般人が購入するのは容易ではないものだ。しかし、燃料用のアルコールや理科の実験でおなじみのアルコールランプとしては特に規制もなく、誰でも簡単に手に入ってしまう(これらはメタノールのほかにエタノールが少量加えられているので法律的には劇物から外れる)。それにしても簡単に手に入るもので人を殺せてしまうのはいかがなものだろうか・・・
メタノールの一番の問題は、無味無臭で、酒に入れても色や味にほとんど変化はなく、入っていることに気が付かないということだ。
そこで、僕が提案したいのが燃料用アルコールに刺激物を入れるアイディアだ。例えば少量でも口に入れたら滅茶苦茶苦いような化合物。これなら誤飲したりしたらすぐに気づいて吐き出すだろう。史上最強に苦いと言われる物質はビトレックス(化合物名は安息香酸デナトニウム)という添加物だ。水の中に1億分の1溶けているだけで苦みを感じるというすさまじい物質であり、苦み成分のチャンピオンとしてギネスブックにも載っている。このビトレックスは食品添加物として認められている危険度の低いものであり、すでに誤飲防止の成分として使われている例もある。燃料用メタノールに少量添加することに大きな支障はないだろう(コスト面では負担があるかもだが、事故防止を抑えられるならメリットはあるはずだ)。実はこういうアイディアは都市ガスやプロパンガスにも使われている。都市ガスやプロパンガス自体は無臭なのだが、あえてジメチルスルフィドとブチルメルカプタンという滅茶苦茶臭い化合物をほんの少しだけ足して販売している。言うまでもなくガス漏れが起こった時にすぐに気がつくためだ。
燃料用メタノールを取り扱っているメーカーには、是非ビトレックスを添加して販売することを期待したいものである。というか、僕自身もメーカーなどに問い合わせて改善を促してみたいと思う。